平成歌舞伎の円熟 　　　　　　　　　　犬丸　治
　　「テアトロ」２００７年４月号

  歌舞伎座は、約４年振りの「忠臣蔵」通しである。團十郎・藤十郎・勘三郎らは参加していないものの、久々の大顔合わせであり、平成歌舞伎のひとつの到達点と言って良いだろう。

　まず、昼「大序」から「喧嘩場」に至る、富十郎の師直が傑作である。
　鶴ヶ岡の幕開きで、大紋を抱き込む様に身体を小さく見せておき、ツケ入りでググッと頭をもたげて行く古怪さ。若狭助にプッと吹いて「すっこんでおいやれ」と決めつける手強さ。花道の顔世に終始気持ちが行き、下手に身体が開いている具合で、このドラマの起点が権力者の「恋」であることを明示する。「我が文なれば」の何ともいえぬ色気。かといって、決して下司ばらず、和歌の心得のある品格が滲み出る。終幕の「早ぇわ」で大紋を広げ、若狭を見込んだ極りなど、一幅の絵である。

　「喧嘩場」では、中啓の使い方が巧い。判官に見えないように、中啓を開いて短冊を読む。顔世の拒絶に気づき、中啓をすぼめる。その動きだけで、この男の動揺と怒りが手に取る様に分かる。
「この古歌に、て」と「添削」と言いかけて、「貞女」と言い直して当てこする運びの巧さ。判官が御酒機嫌と繕うと「いつ御酒下された」と切り返す眼の残酷な光が怖い。判官は師直に格好の餌を投げ与えてしまったのである。以下、判官が耐える程、ますます加虐的に挑発する師直という運びが流れる様である。「出放題」の極りもズッケリと大きく、立派な大名の喧嘩である。

　対する吉右衛門の若狭は、大序で師直に礼を拒絶され怒りに震えて中啓で長袴を払うイキが良い。殿中では七三で師直に狙いを定める処がややイキが抜けるが、怒りのやり場が無く「ば、馬鹿な侍だッ」と一喝する音遣いは溜飲が下がる。魁春の顔世は、如何にも元宮中の女官という品があり、兜改めの居処も良いが、付け文される処で、進物場の伴内の如く、袖に入れられるのを待って見えるのが一失。信二郎の直義はおっとりとして、「厳命さえも和らかに」のあたり品がある。

　菊五郎の判官は、大序の三方を持っての立ち姿で、フッと顔世に思い入れする辺り情がある。喧嘩場では、顔世との仲を当てこすられる辺りから怒りを露わにするが、やや神経質に映る。「気が違うたか武蔵守」は、師直にもっとキッパリと改めて向き直った方が良い。師直に寄りかかられての「切れ切れ切れ」は、アッサリしている。ここは国元・家中への辛苦に耐え忍ぶ故梅幸の表情には及ばない。

　「進物場」は錦吾の伴内がモッサリとしてチャリ味が乏しい。幸太郎の本蔵は一徹さがあって良く、四郎五郎以下中間連中が手揃い。　

　「四段目」。菊五郎の判官は、前半の黒の着付が、愁いとともに、如何にも国守らしい品格。カラ二で切腹の座に進む時、向こうを見やる思い入れ、切腹しての「聞いたか…無念」にイキなど行き届いた出来である。
　幸四郎の由良助は、後半の「ご先祖代々」から門外は、いつもの過度の感傷に流れるが、駆けつけてからの前半は、例えば「委細」と胸を叩く渋さ、主君の葬儀一切を差配する貫目、若侍を「ご了見が若い若い」と制し、「恨むべきはただ一人」と人心を収攬するまで、太い描線で押している。何より実録風「大石内蔵助」にならなかったのが良い。

　梅玉の石堂は情理備わり、左團次の薬師寺は、「あ、ああ聞こえた」の辺り人形身の様な面白さがあり、「一同、愁傷じゃのう」など一種飄逸な味も加わって本役。梅枝の力弥が初々しい若衆ぶり。芦燕の九太夫は、好々爺然とした前半から、「これさ大星」「知行高で割らっせえ」で老獪な本性を見せる辺り手強く老巧。東蔵の原は、家中総代としては貫目に乏しい。諸士では、秀調・猿弥が目につく。ほかに、梅玉・時蔵・翫雀の「落人」。

　もう一つの傑作は、夜の菊五郎の勘平である。菊五郎は、勘平を「徒党の人数に加わりたい一心の忠臣」と規定する（筋書）。確かにその通りだが、その忠節心は、誤殺した旅人から金を奪うに至る。たとえ、勘平が父の仇・定九郎を撃ったのだとしても、それは結果論であろう。菊五郎は、自らの手を汚してしまった勘平が自滅するまでの苦悩を、息苦しいまでに追って行く。そこからは、華々しい義士伝とは裏腹の、運命悲劇が浮かび上がって来る。

　「五段目」の一連の型は、手に入った役だけに流れるようである。弥五郎の前で得々と一味の企てについて話す件、撃ったのが人と分かり慌てて花道に行き、「あの金で」と思案する辺り、この男の脆弱な内面が滲み出ている。
　梅玉の定九郎は、凄味に乏しいが、如何にも放蕩息子然として面白い。思えば、斧家は大星よりも知行高が高い二千石。それなりの品が必要なのだ。権一の与市兵衛が実直。

　「六段目」。
　菊五郎は、紋服への着替えが大袈裟で無い代わり、紋への礼をしっかり見せて、今日こそ加盟が叶うという性根を明らかにする。これが後段の悲劇に利いてくる。周りが気兼ねしてお才らのことを触れぬのを察し、刀を渡すお軽に「もう隠さずとも良い」と思い入れするのが情がある。

　「寸分違わぬ」で財布を確かめて、むせてからの「切なき思い」での表情の一転が凄い。完全な殺人者の顔である。以下、勘平に周囲の人々の「お父さん」という言葉が矢の様に突き刺さって行くのが、観ていて痛い様である。結局彼は「親父さまにはお目に掛った」と口を滑らせ、糊塗に糊塗を重ねて支離滅裂になって行く。おかやに責められての「かっぱと伏して」、「五体に熱湯の汗を流し」の懊悩など、歌舞伎でいて誠にリアルである。二人侍が来て、刀で髪のほつれを直し、出迎えようとスッと下手に行く足取り、「身をへりくだり」の礼など、この期に及んでなお、徒党に加わりたい浅はかさが残酷な程出る。腹を切ってからの述懐も行き届き、二人侍に正座して対峙し「お疑いは晴れましたか」と問う気組みから落入りまで充実。このところ、絶叫調の若手の勘平に辟易していただけに、久々に堪能出来た「六段目」だった。

　玉三郎のお軽は、ただ為す術もなく所在なさげなのが初々しく、「親の死に目に」で勘平の膝にそっと手をやる辺り情がある。吉之丞のおかやは、夫の遺骸に寄り添った背に、サッと疑惑が兆すのが良い。これまで恐らく、人を疑うことを知らなかった老女が、「よもやとは思えども」と振り絞る様に、初めて婿を詰問する件が痛ましい。時蔵のお才、東蔵の源六、左團次の不破、権十郎の千崎とワキも揃う。

　「七段目」。
　吉右衛門の大星は、前半・殊に平右衛門とのやりとりが良い。どこまで遊びでどこまで本心か、そんな詮索が野暮な程、酔態と警句が血肉化されている。九太夫と、正面白洲梯子にもたれて話す時の色気、「九太はもう」の立ち姿など、美事な風格。

　仁左衛門の平右衛門は、三人侍について花道を出る時、自分を殺して小身者に見せていたのには感心した。願書を袖に入れて突袖になり、右肩の塵を払い糸に乗る引っ込みの面白さを初め、終始派手に運び、愛嬌がこぼれる。玉三郎のお軽は身請話への「嬉しうござんす」が、夫勘平への情が溢れる。クドキの「勘平さんは三十に」など痛切な絶唱。お軽・平右衛門の兄妹愛は、孝玉時代からの持ち役だけに互いの呼吸を知り尽くし、間然としたところが無い。児太郎の力弥はしっかりしているが、この役を子供に、しかも「討入り」まで振るのは賛成しない。亀鶴の伴内が、飄逸な味を出して達者な処を見せる。