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久々の「鏡山」通し 犬丸治
「テアトロ」2026年3月号
初春の新国立劇場は十七年半ぶりに「鏡山旧錦絵」の通しである。初役の尾上の時蔵は、かつて父現萬寿が尾上を勤めた際、歌右衛門手づから指導した折紙付きが伝授されるわけで、「片はずし」大役の継承という意義は極めて大きい。
序幕「営中試合」、時蔵の尾上は花道に出たお初を「下りゃいの」と制するあたり主従の繋がりが出る。町人育ちを病尽かされて俯く忍従。「あのここな」と膝を打ち「慮外ものめが」と気を替えて隠れてお初を褒めるのはキッパリとをした。
八代目菊五郎のお初は「誰も、許しは致しませぬが」の大太夫半四郎のセリフ廻しほか手に入って安定している。彌十郎の岩藤は、上手襖の出は流石に背が高く、少しは背を盗んでも良い。「初、仕度しや」と打掛を脱いでのキマリから修羅囃子での立ち合いも大きい。
「草履打」。尾上は、岩藤の上草履と知って攻勢に出るのをもう少しハッキリさせないと後段の逆転と辛抱役が引き立たない。岩藤は下手をキッと見ての「寄ったらお前がたも同類じゃがや」や「何の骨身に」で草履を振り上げてのキマリが世話になる。権十郎が剣澤弾正だが、この人のニンは実悪ではなく実事。
「あとに尾上は」の一人舞台、襖から覗く岩藤方の奥女中に気付いてハッとなり、突袖になってからの引っ込みは死の決意がありあり。今回のような短い仮設ではなく、本格的花道での再演を観たい。
「長局」揚幕が開いて尾上の立ち姿は蒼白な貌が幽冥境を異にしているような儚さ。菊五郎のお初が甲斐甲斐しく、忠臣蔵に事寄せて「私としたことが、「塩冶さまに親御はないもの」の泣き笑いなどホロリとさせた。
時蔵もお初を見送ってからの「合薬の黒丸子」など歌右衛門の痛切なセリフが耳にあるものにはもの足りないにせよ、シッカリ我が物にしていた。尾上に呼び止められる前、「小褄りりしく」の床で糸に乗って花道にかかる菊五郎お初の身のこなしが実に良い。
「烏啼」では彦三郎の伊達平、橘太郎の主税とお初が揃い久々にシンプルなだんまりの面白さを堪能。元の「長局」では、尾上の遺骸を整えたあと遺恨の草履を打ち眺め、寝刃を合わせてから「御夜詰でござい」の声にホッなるまで、菊五郎のお初は気持一本で見せた。
「奥庭仕返し」。彌十郎の岩藤は背が高すぎて黒の着付に傘の出もかえって凄味を欠く。お初は「そのお守りは」と岩藤に草履を差し付ける足取りが充実している。新たに書き加えられた花見の場では刀を杖に、セリフ明晰な七代目菊五郎の頼朝が春を寿いで目出度い。
歌舞伎座昼の最初が舞踊三題「正札附根元草摺」は巳之助の五郎・歌昇の朝比奈。「萬歳」は梅玉の萬歳が幸四郎・勘九郎の才造を引き連れて出ると、流石に風格。「木挽の闇争」は大磯廓の曽我の「対面」にだんまりを加えたもの。
「蜘蛛絲梓弦」は、右近が女童・薬売から荒事の保昌の押戻まで八変化。中でも太鼓持の綱の羅生門鬼退治の錣引が世話に砕けるのは、右近は粋と古風さが生きる。門之助の頼光が切ってはめた役。
「実盛物語」は勘九郎四度目の斎藤実盛。若書きから厚みも加わり、物語では「抜き手を切ってサッサッと」から「浮いつ沈みつ」へのうねるような音遣いで情景が鮮やか。「討っ取れ」と叫ぶ追手と白旗を奪おうとする飛騨左衛門、グルリと廻るともぎ取られまいとする小万という三人の演じ分けもリアルだ。
驚いたのは終段「坂東声の首取らば」と大きく張って荒武者の貌になり、それが「戦さにしつかれ…古木も折れん」では老残の兵。一人のもののふの人生が走馬灯のように浮かぶ。
松緑初役の瀬尾が手強く、実盛に言いくるめられて「一つの徳を得申した」など如何にも肚に一物。新悟の葵御前がシットリし七之助の小万に哀れさ儚さがあり、橘三郎の九郎助・梅花の小よしはすっかり手に入っている。
「女暫」の七之助は十年ぶり。七三で腹出したちにプイと顔を背ける茶目っ気やり、「ホホ敬って」と時代に張って「大恥し」と砕ける愛敬。殊勲は、腹出しの中で唯一「ヤットコトッチャ」と幕切で腰をグッと低く落とした歌昇。
「鬼次拍子舞」。萬寿が白拍子姿から六弥太妹松の前の赤姫になっての大きさ。松緑もコセコセせず大振り。
初芝居の打出しに「女殺油地獄」とは何とも後味が悪い。与兵衛は幸四郎・隼人、お吉は新悟・米吉で代わる。筆者所見の幸四郎は仁左衛門から良く写してはいるが、正常と異常の境界が曖昧な、あの何を考えているのか予測不能の不気味さにはまだ遠い。新悟のお吉は、しっかりした女房の世話好きが、つけ入る隙を許してしまう皮肉が効く。父親徳兵衛の歌六、母おさわの梅花が逸品。小栗八弥を、駕籠乗物の小栗錦左衛門として白鸚が登場(6日より休演、Bプロの東蔵に代わる)。
浅草歌舞伎は、松也から橋之助に座頭が代わってから二年目。第一部「石切梶原」は染五郎初役の梶原だが、生締よりも手堅い実事で、時に色悪・実悪の陰翳さえあり、客を無性に喜ばせる愛敬に乏しい。六郎太夫と大庭兄弟のやりとりの間の無言の間の思入など持ち切れず「近頃もって無礼でござろう」も引き立たない。又五郎の六郎太夫が実直、引っ込みでのおこついての愛敬など手堅い。左近の梢は初々しい。。橋之助の大庭は線を太く出しているが所詮役違い、男寅の俣野は声が出来ていない。
「相生獅子」は鶴松と左近。続く莟玉の「藤娘」は六代目菊五郎式ではなく六代目歌右衛門所演(勘祖振付)。板付ではなく花道から出で「人目せき笠」の振りになる。「潮来出島」をジックリ踊り、幕切・房をかついでの極まりが、大津絵から抜け出てまた絵中に戻る作意に適う。
第二部「吃又」は鶴松のおとくが清新。又平から「親もない子もない」と突き放されてから、二重での思い入れ、凝視し合っての「私も一緒に」など、終始又平を引っ張る。
橋之助の又平は篤実だが、チャリめいて底抜けの善人の趣。「名は石塊に留まれと」の前に柄杓を落とす際、気が抜けてしまうのが惜しい。舞台復帰の橋吾の将監がめでたく、夫婦を見守る歌女之丞の北の方の情愛。染五郎の雅楽之助は足長に股立姿が寒々しい。
「男女道成寺」。莟玉の花子は。「恋の手習」で出て来ただけであれだけしっとりした情感を滲ませるまでには、相当踊り込んでいるのだろう。「とんと言わずに」「ふっつり悋気」の芝居心。道行からキチンと「京鹿子娘道成寺」を踊らせたい。左近は「汲む盃にさざ波の」など切れ味鋭く、「鈴太鼓」はさながら二人の立ち合いを観るようで胸がすいた。
新橋演舞場昼、右團次の「操り三番叟」のあと「鳴神」は福之助(Bプロ鷹之資)。狷介な陰翳があり、コセコセとせず大振り。廣松の絶間は上臈らしい品と華があり祖父先代雀右衛門の面影が兆した。
「熊谷陣屋」は團十郎十年ぶりの再演。容姿といい柄といい、これほど恵まれた熊谷役者はいないが、物語など小次郎の死をも語る二重性に乏しく、肚が薄い。
雀右衛門の相模は「国を隔てて十六年」ではそれを受ける扇雀の藤の方も良く、しみじみと聴かせた。虎之介の義経がしっかりした出来。市蔵の梶原、男女蔵の弥陀六。
團十郎による「仕初口上」の吉例の「睨み」のあと、夜「矢の根」は新之助。カドカドはキッパリとしているがセリフになると流石に幼い。やはり荒事は大人が「こどもの心で」演じるのであろう。
「児雷也豪傑譚話」は草双紙をひもとくように、團十郎の児雷也のスペクタクルを愉しむ芝居。「鏡獅子」の團十郎の御小姓弥生は終始腰高。流石に後ジテは「獅子は勇んで」など荒ぶる千代田城の獅子で立派。ぼたん・新之助の胡蝶がのびのびと踊る。
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