黙阿弥と綺堂の間　　　犬丸　治　

「テアトロ」２０１３年４月号

團十郎の訃報に４日未明接した翌日、日生劇場の二月大歌舞伎を観る。
　昨年十二月の勘三郎の死に続く不意打ちには、正直こたえた。江戸歌舞伎の精神的支柱ともいえる團十郎の喪失に、これからの歌舞伎は一体どうなるのか。その思いは皆同じようで、平日午後に拘わらずの観客の入りが嬉しかった。今月は、舞台奈落に転落して負傷した染五郎の五ヶ月ぶりの復帰である。團十郎という太陽を失っても、こうして還って来る人もいる。将来への希望を失ってはなるまい。

最初の演目は「吉野山」だが、幕が開くと浅黄幕の前に柿色の裃・鉞の鬘の幸四郎が平伏して口上を述べる。染五郎復帰の礼で、従弟團十郎の死には一言も触れないのが、却って好もしい。だが、新・歌舞伎座への引き続きの愛顧を請うときと、冒頭さっと顔を上げた表情に、心中期するところあり、という思いがありありと伝わった。

その「吉野山」。福助の静は、花道の出で、亡父芝翫のように桜を愛でる思い入れはしない。終始赤姫の風情だけで押し切っている。それが良い。「馴れぬ茂みの紛い道」でトンと杖をついた立姿。「谷の鶯」でふっと顔を上げるところ、「四方の梢も」の背中など。表情で演技すること無く、説明的でないのが何より良い。もともと静は白拍子・遊び女だから「女雛男雛」も旅でのほんの戯ごと、という良い意味での馴れがある。物語の前の「沖の石」の清元一杯にきまるところ、「人こそ知らね」の位取り、最後の「急ぐとすれどはかどらぬ」の義経へ寄せる情など、しっかりした出来。

染五郎の忠信は、せり上がっての「野道畦道ゆらりゆらり」以降の動きもブランクを感じさせずクッキリとし、狐の本性を顕わす振りも文字通り「目立たぬように」であざとくない。セリフ・身体から、復帰への気概というべき心の張りが伝わって来る。実際「眺めにあかぬ三日月の」のキマリなど鋭く、線が太くなった。問題は軍物語。景清の長刀の扱いが雑なのと、「波の音」「帰る雁」といった件で景色が変わらないこと。幕外の引っ込みが闊達。亀鶴の藤太が、ノリ地の名乗り、所作ダテで腕達者ぶりを見せた。

「魚屋宗五郎」は、「弁天堂」「お蔦殺し」「詮議」をつける。
　「弁天堂」のお蔦は妾奉公の傍ら茶道にも通じる女だけにしっとりとした味があり、典蔵に言い寄られてからは、魚屋の娘ゆえに侮られまい、という気強さを見せた。桂三の典蔵がべりべりとした端敵ぶり。友右衛門の紋三郎は、いささかトウが立ちすぎていよう。世話ダンマリになり、左團次の十左衛門が出ると、さすがに舞台が大きくなる。

「お蔦部屋」は四年前の国立での松緑・孝太郎所演で久々に復活された。
　普段の「宗五郎内」だけ観ていると、おなぎはお蔦の朋輩のように思ってしまうが、お蔦は主君の妾でおなぎはその腰元の主従関係なのだ。
　実際この場面は「鏡山」の「尾上部屋」丸採りである。確かに無実の不義の罪科を着せられたお蔦の無念をおなぎが引き受ける、という意味はあるが、通して見るとおなぎは後幕で宗五郎の前で同じ話を繰り返すことになり、クドイ印象は否めない。高麗蔵のおなぎが甲斐甲斐しい。児太郎の小姓梅次はたどたどしい事甚だしいが、下手で父福助のお蔦とおなぎの芝居をジッと観ていたのが感心。大器の証かも知れない。

「詮議」。ここが一番面白かった。
　染五郎の主計之介が「誠の恋に身分も隔てもあるまじと」信じていたのに裏切られた、という。黙阿弥の原作にこのセリフはない。あるのは本家筋から「その日稼ぎの魚屋の娘風情を妾に貰って」と批難されて、「仮令下賤の者たりとて同じ天下の人にして」と主計之介が反論し、機嫌が悪いのだ。そこを今回は前記の様に膨らませたのである。主計之介は身分を超えてお蔦を愛している。それが黙阿弥が「新皿屋鋪」と銘打った所以で、「同じ天下の人にして」は明治の四民平等の空気が息づいている。綺堂の「番町皿屋敷」に通じる新しさだ。

主計之介は、本家からの横槍に酒で憂さを晴らしている。そこにお蔦の不義話と解かれた帯で癇癪が爆発するが、お蔦の必死の申し立てを一旦は信じようとする。このあたりの染五郎が、いかにも大身の旗本らしい育ちの良さと同時に、心の運びが上手い。
　しかし紋三郎の自白という偽情報に、典蔵にお蔦を責めさいなませる。ここまでは良いのだが、最後はお蔦を組み敷く。ここで二人だけの芝居になると明らかに青山播磨とお菊で、「皿屋敷」の責め場の伝統から離れる。重宝の茶碗が割れていたのに激怒し、お蔦を井戸に斬り落として刀を眺めて幕では「籠釣瓶」だ。やはり原作のように井筒を見下ろすお約束の方が、未練が出る。橘三郎の吾太夫・錦弥の傳平が手堅い。

「宗五郎内」以後、今回私が最も不満だったのは「お蔦がいない」ことだった。お蔦の死の重みがどこにも感じられない。幸四郎の宗五郎は三回目だが、花道で鳶芳松（廣太郎）とすれ違っての立ち話、家でのおはまや太兵衛の怒りを受けての話ぶりも、奇妙に醒めて、他人事である。お蔦の死を最も悲しんでいるのは兄宗五郎のはずだ。「その時金に目がくれて一時の苦労を脱れるため屋敷へ妾にやったが過り」。借財の苦労を作ったのは恐らく宗五郎の酒であり、だから彼は酒を断ったのだろう。そこまで黙阿弥は書いていない。しかし素直に読めばそう読める。幸四郎の「去年の九月菊茶屋へ」以下の長ゼリフからは、「虫を殺して」いる宗五郎の苦渋と自責が伝わってこないのだ。

おなぎが来て涙ぐむくだりも、意識的に型を外す。以下「幸四郎型」というべき舞台が続くが、それなら何故従来の音羽屋型はこうなのか、という批判がないから、酷を言えば「仕勝手」と紙一重である。

おなぎの話を聞いて、「たぶさァ取りやがったとよ…それからどうしやした」という変わり目は、怒りよりも愛嬌を取ろうとしている。茶碗を持ち、物欲しそうに眺め回して「一杯くれ」がまずおかしい。悲しみを堪えかねて、という運びが無い。あと、二杯、三杯とハイペース。この人は本当に禁酒をしていたのか、と思うほどである。一杯だけ、という遠慮から次第にエスカレートしていく段取りがあるから面白いので、おはま、三吉に注がれる流れを含め、変化がなく平板だ。片口を振り回すのが写実、ではいけない。屋台囃子につれて身を起こす、というところも無く、下座に併せて洗練された従来の型を否定するなら、下座不要ということにならないか。

福助のおはまが、前幕のおつたとは打って変わった気風の良い世話女房ぶり。錦吾の太兵衛は篤実だが、先月の権四郎同様、俺がもう少し若ければ、という気骨が欲しい。高麗蔵のおなぎは物語も丁寧。亀鶴の三吉は愛嬌があり、その上芝居の邪魔にもならず、神妙に勤める。幸雀・芝のぶの菊茶屋母娘、金太郎の丁稚が良い。

「玄関先」「庭先」。
　ここでの宗五郎の酔っての泣き笑いが響かないのは、「宗五郎内」で述べた理由による。左團次の浦戸は何気ない役でいて、こういう場では切てはめたようである。

染五郎の主計之介が出ての詫びになる。ここで「好める酒の酔いに乗じ」という主計之介のセリフに、宗五郎が反応してほしい。お互い酒乱の上のこと。「たぶさを取った」と怒った自分が、気が付けば女房のたぶさを取っていた。胸襟を開いた主計之介の詫びに、宗五郎が共感することにこの芝居の深さがある。せめて亡き妹に言い聞かせる宗五郎のセリフを復活しないと、「金で解決」の後味の悪さだけが残る。